Camusは,
An intellectual is someone whose mind watches itself.
と記した.
Batesonは,
That reminds me of a story.
と述べた.
“intelligence”という極めて定義しにくい言葉に対して,一摑みに理解を促してしまう表現力と説得力は,詩的論理に他ならない.
2008/08/01
What do I mean by “intelligence”?
2008/07/22
他者理解
「ひとりの人間が,他のひとりの人間について十全に理解するというのは果たして可能なことなのだろうか.つまり,誰かのことを知ろうと長い時間をかけて,真剣に努力をかさねて,その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことができるのだろうか.我々は我々がよく知っていると思いこんでいる相手について,本当に何か大事なことを知っているのだろうか.」(村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」)
他者もまた自己なのだと思う.
真なる「他者」なんて存在しない.自らが勝手に思いこんでいる「他者」のみが存在する.
それは,自らに都合のいいように設定される.結局,「自己」も「他者」も自らの内において生成されているに過ぎない.
しかし,自らが思う「他者」像が思いもかけぬ行動をしたとき,「自己」は傷つき,怒り,不快に思う,他方で喜び,驚き,感動する.
おそらく「理解」するなんてあり得ない.
「未知」なる存在といかに向き合っていくか,ということが大事なのだと思う.
2008/07/08
2008/04/27
nobody's business
あらゆる制約条件や世俗的なしがらみの中で生きているのだけれども,「誰でもないもの」という“nobody”から,発想してみることは,意図せざる“everybody”に変わりうるかもしれない.
“Nobody's business”という言い回しがある.
It is nobody's business.
というと,「誰もやらないようなばかばかしこと」として,否定的なニュアンスでとられてしまう.
ところが,この文章を肯定的に捉え直すならば,
「誰にもできなかった仕事」と捉えることも可能といえる.
nobodyとして,nobody's businessというライフワークを続けていけたらと思う.
2008/03/15
いまは,何よりパリが恋しい
"étranger" として向き合ったパリ
パリの「古びた」街並みは,発見と快楽という「新しさ」に満ちていた.
その手がかりとなったのは,paroleとamourだった.
パリについて書こうと思ったけれども,それは「パリ」からは距離を置き,離れるだけのように感じられる.「〜について」は,対象への距離化を宣言している.パリのpresenceから遠ざかっていく.
パリとともにもうしばらくいっしょにいるために,ぼくは「語る」という行為を選択したくない.
投稿者 Unknown 時刻: 6:37